《2013年》

  私の万葉会での初舞台は平成14年11月23日、国立能楽堂での「紅葉狩」の独吟であります。以来、16年11月3日〔国立〕「松風」、17年12月10日〔セルリアンタワー〕「芭蕉」、19年6月23日〔国立〕「田村」と夫々独吟をさせていただきました。以後妻の病状悪化のため介護、介助に手をとられお稽古も休まざるを得なくなりました。23年4月、妻が他界してその年の暮から稽古を再開、「船弁慶」キリを1年がかりで中村先生のご指導をいただき、そのあと矢張り1年がかりで稽古した「蝉丸」で今回、6年ぶりに万葉会に参加させていただきました。

 これまでのプログラムや写真を見ていると「あさお謡曲研究会」に平成13年、入会してからの諸々の事柄が思い出されますが、その一端を書いてみたいと思います。

 13年の何月に入会したのか記憶にありませんが、見学の日に仕舞の稽古が行われており、その優雅な所作に分らないまま感心したことを思い出します。当時は高橋万紗先生のアシスタントとして現在の中村先生のお母様がお見えになっており、私のような初心者に細かく気を配って下さいました。その後、多分大学を卒業されたばかりと思われますが中村先生も参加されましたがその声の素晴らしさにただただ驚くばかりでした。当時は未だ宮崎さんや福永さんが入会される前で男性は私一人でした。神楽坂の矢来能楽堂に高橋万紗先生や中村先生が出られる時は極力足を運んでいましたがその時隣席に座られた老婦人に「謡曲を始めたばかりでああいう声がなかなか出ませんね」と話しかけると「10年かかりますよ」と答えられました。しかし10年たっても到底無理な状態ですが中村先生のご指導の下でせめて1年に1曲でもじっくり謡って行く心算です。

 それぞれの番組を見ていると様々の思い出が蘇りますが、その中でも21年に「西王母」、23年「花月」、今年25年「猩々」のシテとして演ぜられた柏崎真由子さんが最初この道に入られたのが「あさお謡曲研究会」だったことは殊に感慨深い深いものがあります。

 さて私の6年ぶりの万葉会の独吟ですが本番前に控え室で二度も練習して万全を期していたのに本番では高音部がうまく行かず失敗に終わりました。ただ終わって控え室に下がる途中で家元から「良く暗誦しましたね」と慰められたのが思い出として残ります。尚一層研鑽に努める積りです。

 25年度の万葉会は出演者数が従来より大幅に増えました。盛会を皆様共々に喜ぶと共に今後とも精進してまいりたいと思います。


                          〔小 川 芳 邦〕

 

 万葉会が終わり、安堵感と少しばかりの達成感にひとり浸っている。

 2年に1度の発表会、これが最後かもしれないという思いで立つ舞台、緊張が走る。上手に舞っていいところを見せようなどと思い上がると必ず失敗する。

 今回は、舞囃子松虫、男舞は速いテンポで勇壮に颯爽と舞うと言われるが、齢を重ねた者にとっては、なかなか難しい。仕舞は見せ場も多く爽快で好きな舞の一つである。「松虫」の解釈にはいろいろある様だが青年の厚い友情、すだく虫の音に誘われ草原に消えた二人。何とも言えぬ不気味さと荒涼感が伝わってくる。現代人には想像し難いテーマかもしれないがあまり考えずに舞うことにした。

 立ち上がり、緊張で足が震え最初の一歩が出ない。後半の謡「面白や…」の声が掠れる。などなど反省点はあるが5回目の舞囃子、兎にも角にも楽しく舞い終えることができた。18年間続けてきて「よかった」と思える瞬間だった。

 最後に、ご指導いただいた先生方に御礼申し上げると共に、今後も精進していきたいと思う。
 
 
                           前田 明子

前略 秋も深まり紅葉も見ごろとなりつつある今日この頃皆様には如何お過ごしでしょうか?

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  さて、妻の介護のため約三年間中断していた謡曲の稽古を一昨年暮れから 再開し本年六月、川崎市麻生区のサークル祭で謡曲「船弁慶」キリ〔最後の部分)を独吟いたしました。今回、来る十一月三十日(土)国立能楽堂、研修舞台において私の属している「万葉会」の一員として謡曲「蝉丸」の一節を独吟することになりました

  皆様ご多忙とは存じますがお時間のご都合がつくならば国立能楽堂まで お運びいただければ幸いでございます

  尚。私の出番は午後3時頃で所要時間約7分でありますが当日、冒頭10時30分から金春流若手能楽師NO1で私達を指導されている中村先生の興味あるお話も予定されていますのでお時間あればご来場ください。                    

 研修舞台は本舞台とは別場所の2階ですので係員にお確かめください。

自然居士のキメ細かい講座を受講していたので、大変感慨深く見る事が出来ました。

中の舞、曲舞、簓舞、羯鼓舞の種々舞の動きの展開と地謡・囃子の旋律(特に名ノリ笛)が日本人の琴線に触れるのでしょうか。シテを勤め役作りが若い僧ににピッタリで、音声、体躯、姿勢、所作共々美しいと感じ入りました。

私にとって、これからの余生の楽しみは、能楽堂へ行き、あの雰囲気を何時迄も感応出来る事を望んで暮らして行きたいと思います。

                                   

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10月22日 伊月 恭子

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平成25年6月29日、矢来能楽堂で円満井会定例能があり観賞してまいりました。私にとっては2回目の矢来能楽堂なので、地下鉄神楽坂駅矢来口よりすぐに入場でき、席は中正面、目付柱の近くで全体の動きがよく見られました。

 

 

番組は最初に、シテ方金春流能楽師中村昌弘先生の演ずる「高砂」でした。今“あさお謡曲研究会”で習っている最中のことでもあり、また私の好きな演目でもありますから、楽しみと緊張感のなかで始まりました。

今も心に残る場面は、橋掛での真ノ一声という“高砂の、、、、、”の場面、静かにゆったりとしたあの独特の音声と抑揚、高砂の浦の松と老夫婦の長寿をめでる光景を彷彿とさせるものがありました。そして後半での“神舞”、能の舞台でなければ拍手喝采の場面なのでしょうが、心の中で拍手喝采し静かに見守りました。そして地謡の“千秋楽は、、、、”で終幕となりました。

さて、能「高砂」を鑑賞するにあたって、中村昌弘先生からA4裏表1枚の解説文をいただいておりましたので、大変参考になりました。

その中の「④所作」の項で、杉箒で松の落ち葉を掻く“型”があります。これはある漢字一字を書くのですが、さてなんでしょう?、とありましたが、わかりませんでした。教えて下さい。

また「⑤囃子」の項で、五段次第の場合は三遍返しといい、ワキ→地謡→ワキと同じ文言を三回繰り返します、とありましたが、実際に見て聞いて初めてよくわかりました。

これからもできるだけ能楽を観照し、小謡や独吟の分野で頑張りたいと思います、よろしくお願いいたします。

                        鈴木 徹

小生は、プラント・エンジニアリング会社を2004年にリタイアーした際、海外プロジェックトばかりを遂行していた為、何か日本的なものを手掛けたいと考え、謡を習うことを思いつきました。今年で9年目を迎えますが、あさお謡曲会の1期生は26年目と伺い、小生は未だビギナーです。謡、仕舞の奥の深さに感じ入っているこの頃です。

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福永 喜朋


 

 

                                                               写真: 2013サークル祭にて 男性会員全員による迫力のある地謡

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 私と謡曲の出会いは高校2年生の時に始まる。この時、生徒会の文化活動の一環として謡曲部が設立された。大抵の部活は生徒だけだが謡曲部だけは有志の先生も参加されて一緒に謡ったものだ。私の育った広島県福山市は幕末に藩主、阿部正弘公が老中となり活躍した典型的な城下町で何故か喜多流が盛んで喜多流の大島師を先生として始まったが私がどうして参加したのか審らかではない。しいて言えば父の弟つまり叔父が東京の観世家元に弟子入りして帰郷の後、謡いの先生をしていたとか、その関係で父なども謡曲を謡っていた雰囲気にあったのかも知れない。

 謡曲部の活動で特筆すべきは喜多流宗家、人間国宝の喜多六平太さんが我が高校に来られ講堂で能「小袖曽我」を演じられ我々謡曲部が地謡を勤めたことだろう。私は高校2年終了後、東京の高校3年に編入し以来東京生活で謡曲とは全く関係がなかった。「小袖曽我」もキリ以外は全く覚えておらず謡曲とは無縁の生活を送っていた

 あさお謡曲研究会に入会したのは確か2001年頃だったと記憶しているが高校2年の1948年からそれまで無縁だった謡曲を始める理由は定かではないが妻の出身地、長野県北信地方で北信流と言われている謡曲を婚礼の後の催しに肴として一節、謡う風習があり、妻の関係で出席して主人側3人お客側3人がそれぞれ謡う有様を見て大いに刺激をうけ俺も嘗ては謡ったことがあるんだと入会したと思われる。北信流の演者には選ばれなかったが姪の結婚式で「高砂や」を謡った時には兄嫁から結構なお肴を有難うございましたとお礼を言われ面目を施した記憶がある。

 今、思い出すと戦災焼失前の実家の物置に鼓があったり、5歳下の妹が脳梗塞で倒れるまで仕舞を習っていたとか家庭環境が比較的謡曲になじみがあったと思われる。不思議なことに他の兄弟は全く無縁だ。

                                                                                小川 芳邦
                                                            (写真:2013年あさおサークル祭にて船弁慶を謡う)

《サークル祭にて初舞台》

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昨年の秋に入会したばかりですが、この6月1日のサークル祭の能楽体験講座での会員実演の一つとして安宅の仕舞で初舞台を経験することができました。お稽古は無論のこと、袴も自分では着けられず中村先生には大変なお世話をお掛けしました。また、地謡を担当していただいた先輩方には感謝感謝です。
 
この歳でもやはり緊張はするものです。それなりに練習はしたつもりでしたが、途中、一瞬真っ白になりかけました。しかし何とか最後までたどり着き、1分30秒の緊張の初舞台を終えました。あれやこれやと反省材料に事欠きませんが、次の機会に生かすべく気持ちを前向きに切り替えていきたいと思います。その時には、型に四苦八苦するだけではなく、もう少し役になり切れればと欲を出しているところです。
                                                              2013年6月2日 田中義朗


 
 
「初舞台、みんなで謡えば恐くない」と自分に言いきかせましたが、あがりました。
前日の練習は男性二人の間でしたので、音程がわからなかったのですが、そのことを
お二人に話しましたら、気を使ってくださって、私に合わそうとしてくださったようです。
結果、練習の時の方が迫力があったように思えます。残念なことをしてしまいました。

他の演目では、男性方の地謡も良かったと思いますが、女性方の地謡に聞きほれました。
仕舞も謡いも年数を重ねることの大切さを目と耳で実感いたしました。
「いつかあんな風に謡えるようになりたい」という夢を持つことが出来ました。
 
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昼の部の方とご一緒出来て、楽しかったですし、勉強になりました。
ありがとうございました                                                            田中真紀子
 
 
 
 
昨年12月から稽古を始めて2度目の発表の場でした。友人3人がわざわざ聴きに来てくれていたこと、自分でも少し自信をもてるようになっていた事から、上手くやりたいという気が先走っていたようでした。
羽衣のキリの謡いは広い音域が要求されます。高音域から謡い始め、最終直前に最低音域が来て、締めに入ります。当日は緊張感のせいか出だしの音程を上げ切ることが出来ずに謡い始めたため、後半最低音が揃わず締めがばらばらに終わってしまいました。
 
送られてきた私の友人の感想です。これでも慰めているつもりなのでしょう。
「どうして、どうして皆さん半年とは思えない堂々たる謡い振りでしたネ。あれだけ大きな声を出せれば健康にも効果があると確信しました」「いずれにしても、本日多くの方が見えられたのには、流石と思いました」
                                                                   原嶋克巳
                                                                            

 

● あらすじ: 出羽の国(山形県)・羽黒山の山伏が、大和(奈良県)の葛城山に峯入りする。折しも前後も覚束ない降雪のため岩陰に待機していると、里女が現れ女の庵に案内し、焚火してもてなす。そして雪の中集束した細枝を標〔しもと〕と呼ぶのだといい、「標結ふ葛城山に降る雪の、問なく時なく思ほゆるかな」という恋の古歌もあると教える。やがて、山伏が後夜(午前2~6時)の勤行にかかると、女は加持により三熱の苦しみから救って欲しいと頼む。訳を訊ねると、自分は葛城の神で、その昔、役の行者【(634(舒明天皇6年)生―?没】より山【二上山~金峰山(吉野)】に岩橋を架けよと言われたが、自分の醜い顔貌が恥ずかしく、昼間は岩戸に籠もり、橋を架けることが出来なかったので、その咎で、つた葛で縛られ、三熱の呪縛に苦しんでいると打ち明け、姿を消す。(後シテ)山伏は夜もすがら祈祷していると、葛城明神が現れ、祈祷を喜び、ここは高天の原であると言い、月の光に照らされた白銀の世界、遠く天の香具山も望む絶景を背景に大和舞を舞いますが、やがて夜が明ける前に再び岩戸の中に入っていった。
● 舞台の感想:。演技の技術的なことは判りませんが、能の舞台に満足し、師の舞に安堵と誇りを感じた。シテの謡と舞に鑑賞者は集中し、舞台では地謡、ワキ、ワキツレ(2)、囃子方(笛、小鼓、大鼓、太鼓)すべてがシテに呼吸と拍子を合わせ、鑑賞者は最初から最後まで舞台に惹き付けられているように見えた。シテは厳かに,神々しく、たっぷりと、謡い、舞いきったと言う印象で、台詞の声も聞きやすく、よく通り、分かり易く、鑑賞者は落ちこぼれがなく、演技の終わるまで集中しており、舞台と鑑賞者、会場全体が一体感でぴんと張った雰囲気が醸成されいる様に感じた。凄いことです。一つ付け加えますと、能舞台の増女(ぞうおんな)の面の葛城明神の容姿は醜いとは正反対の素晴らしく美しい女神でした。
世阿弥は芸能の本質は観客の心をつかむことだとし、それが能の存在意義であるとし、それをと呼称した。何時も能の公演で思うことは、演技が会場の心を完全につかんだときは、オペラはスタンディング・オーベーション(SO)が起こる。オーケストラもフィギュアスケートも体操の競技も。世阿弥の時代を含め能楽の公演でははあっても SOは許されなかったのか、はたまた、誰もそこまでのには至っていないのか? 何時になったら能楽堂でSOが見れる日が来るのか? 能舞台はその様なものではないのか? いつも能楽堂ではそんなことを考える。今年は4月に世阿弥生誕650年を記念し、新作能「世阿弥」が上演予定と聞く。梅原猛の作品を、能楽師・梅若玄祥が演出・主演し、現代人の心情に照らし現代の言葉で描くと報道されている。
● 謡曲・葛城の作者はこの物語で何を言わんとしているのか? 考えたが良く判らなかった。感想を書くに当たって困り、調べてみた。そして次のように結論づけた。 この物語の元の話は今昔物語(十一巻第三)によると男神であるが、能の作者は女神に仕立、序ノ舞を演じさせ演出の効果を高めた。ではなぜそこまでして言いたかったことはなんであるか?。『人間は悪いことをすれば、その罪を罰せられる。神も人間と同じ様に、悪いことをするとその罪の咎を背負う。女神も同じであり、天界における厳しい試練として三熱、五衰、女として五障などが更に加わる。しかし、加持祈祷し,改心すればその咎から解放されるが、もって生まれた性格までは変わらない。三熱の呪縛が解けても、明るくなると恥ずかしいのだ。山伏、修験者は神仏習合であり、この物語は神と仏の世界が組み込まれているために、謡曲「葛城」の理解を難しくしているのだろう。』(2013/02/02 宮崎正彬)