「謡曲」と私

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 私と謡曲の出会いは高校2年生の時に始まる。この時、生徒会の文化活動の一環として謡曲部が設立された。大抵の部活は生徒だけだが謡曲部だけは有志の先生も参加されて一緒に謡ったものだ。私の育った広島県福山市は幕末に藩主、阿部正弘公が老中となり活躍した典型的な城下町で何故か喜多流が盛んで喜多流の大島師を先生として始まったが私がどうして参加したのか審らかではない。しいて言えば父の弟つまり叔父が東京の観世家元に弟子入りして帰郷の後、謡いの先生をしていたとか、その関係で父なども謡曲を謡っていた雰囲気にあったのかも知れない。

 謡曲部の活動で特筆すべきは喜多流宗家、人間国宝の喜多六平太さんが我が高校に来られ講堂で能「小袖曽我」を演じられ我々謡曲部が地謡を勤めたことだろう。私は高校2年終了後、東京の高校3年に編入し以来東京生活で謡曲とは全く関係がなかった。「小袖曽我」もキリ以外は全く覚えておらず謡曲とは無縁の生活を送っていた

 あさお謡曲研究会に入会したのは確か2001年頃だったと記憶しているが高校2年の1948年からそれまで無縁だった謡曲を始める理由は定かではないが妻の出身地、長野県北信地方で北信流と言われている謡曲を婚礼の後の催しに肴として一節、謡う風習があり、妻の関係で出席して主人側3人お客側3人がそれぞれ謡う有様を見て大いに刺激をうけ俺も嘗ては謡ったことがあるんだと入会したと思われる。北信流の演者には選ばれなかったが姪の結婚式で「高砂や」を謡った時には兄嫁から結構なお肴を有難うございましたとお礼を言われ面目を施した記憶がある。

 今、思い出すと戦災焼失前の実家の物置に鼓があったり、5歳下の妹が脳梗塞で倒れるまで仕舞を習っていたとか家庭環境が比較的謡曲になじみがあったと思われる。不思議なことに他の兄弟は全く無縁だ。

                                                                                小川 芳邦
                                                            (写真:2013年あさおサークル祭にて船弁慶を謡う)