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会報52-3 歴史の小箱 簒奪された国会「君が代」-2

間野 洋[平成30年(2018)01月31日発行会報第52から]

志賀海神社の秋の山誉祭は、志賀三山の山の恵みを感謝し、漁猟を祈る所作を行う。次に禰宜が神楽歌として以下を歌う。

「君が代は千代に八千代に、さざれいしのいわおとなりてこけのむすまで」

「あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸に命 千歳という」

「花こそ咲いたる 沖の御津の汐早にはえ たらむ釣尾にくわざらむ鯛は沖のむれんだいはや」

「志賀の浜長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向かいたるあの吹上げの浜 千代に八千代まで」

「今宵夜半につき給う 御船こそたが御船ありけるよ あれはやあれこそは安曇の 君のめし給う 御船になりけるよ」

「いるかよいるか 汐早のいるか磯良が崎に鯛釣るおきな」

山誉祭における神楽歌の場面

山誉祭における神楽歌の場面

 

君が代の本文解説の前に、香椎路について説明する。

香椎路は香椎宮の参道を意味 し、香椎宮の起源は西暦200年、仲哀天皇 ・神功皇后が橿日の地に行宮され新羅征 伐の軍議がなされた宮です。(福岡市東区 香椎)

香椎路より志賀の長浜まで船で「安曇の君」が、山誉祭のため今宵の夜半に到着 されると喜んでいる様を歌っている。

扨て、本文「君が代」の解説。

①千代に八千代に

糸島・博多湾一帯には千代の松原が多い。八千代は複数系。また、県庁所 在地は千代町である。

② さざれ石

糸島市三雲に細石神社が存在する。 江戸時代、志賀島で発見されたとされ る金印「漢委奴国王」は現在国宝として 福岡市博物館に保管されているが、細 石神社の宮司の「口伝」が残されており この金印は細石神社に蔵されていたと 言う。肝心の志賀島に金印が出土する ような遺跡が発見されていないという問 題点がある。なぜこの金印が細石神社 に旧蔵されたかは不明であるが、糸島 の王墓から出土した金印が細石神社に奉納された可能性も高い。

細石神社

細石神社

③ いわお

細石神社の南側には「井原溝遺跡」、「井原山」等、地元住民が「いわら=いわお」と呼ぶ地名が点在する。

④こけむす

糸島市船越に「若宮神社」があり、こけむす姫が祭神となっている。

若宮神社

若宮神社

前述の「君が代」の歌詞そのものが神社 、地名、祭神の4点セットとして揃っている うえ、西暦200年創建とされる香椎宮という強力な地名、神社が加わった。

以上の事から、「君が代」の生誕地は 糸島・博多湾岸であり「君が代」に歌わ れる「君」とは皇室ではなく山誉め神楽 歌にある「安曇の君」もしくは別名「筑紫の君」という九州王朝の君主と想定される。 九州王朝については、日本の文献・史料では正確に説明不可能です。 ここでは隋書「俀国伝」(たいこくでん) で説明します。「倭」ではありません。

「俀国は百済・新羅の東南にあり、大海の中に山島に依りて居す。」

すなわち俀国は朝鮮半島の東南の 海上にある島国(九州島)である。 さらに俀王、姓は阿毎(あめ)、字は 多利思北孤(たりしひこ)が隋の煬帝 へ大業三年(西暦607年)朝貢する。 この時の国書の内容は有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子 に致す。恙無しや」云々と。 隋の煬帝はこの国書に対して、一旦 怒ったが、翌年使者「裴世清」を?国 に遣わす事になる。

隋使の裴世清は「阿蘇山有り」云々と 阿蘇山を見たとはっきり言っている。 すなわち俀国の都は阿蘇山が見える 所にあったということで九州島である。

明治以降の日本の教科書は、この 「日出ずる処の天子」云々は聖徳太子 の対等外交と称した。しかし西暦607 年の推古記の日本書紀では聖徳太子 の記載は一切なく「厩殿皇子」の皇太子で摂政が記されているのみで、「日出ずる云々」の記載、小野妹子の遣 隋使の件は一切書かれていない。 もちろん隋書「俀国伝」にもこの聖徳太子の件は記録に無いのである。

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